〔18〕息ができない!
※映画化を記念して、12月8日より再連載を開始しました。
「304 ジョー・ボイススクール」。
その部屋番号札に、小さく「城勘太郎」と書いてある。
その名前とおねえっぽいミスター・ジョーの動きを重ねると、藍はいつもくすっと笑ってしまう。
でも今日は、笑う気がしなかった。
グレーの霜降りのジャージに着替え、裸足でジョーのエレピの前に立つ。
「ストレッチからやりますか」
「あ。はい」
藍はぐるぐると肩を回したり、顎の関節を開けて、自分でごりごりマッサージしたりした。
足首や手首も回す。
片腕ずつ肘を曲げて上げ、反対の手で肘をゆっくり下に押して胸のワキの筋肉を少しずつ開いていく。
両手を開き、片方ずつ、肩甲骨を伸ばす。
5分ほども真面目にやると、汗ばんできた。
「はい。そんなことろでいいかしら。じゃ、呼吸法いきます」
ミスター・ジョーは呼吸法に凝っている。
というか、自分なりの呼吸法を編み出して世の中に広めたいと思っていた。
彼はいつも言った。
「あのね、全身で息を完璧に吐けなかったら、息は吸えないの。
完璧に吐くから完璧に吸えるのよ。
そしてその繰り返しを全身で行うことで、だんだんと細胞がいきいきしてくるわけ。
呼吸器も自分の仕事をするようになる。
喉も開いてくる。
さあ、あとは感情を込めて歌うだけよ。
オッケーオールラィー」
テレビのCMでろうそくを吹き消さずに民謡を歌う歌手の姿があったが、あれこそが「全身で歌う」ことの完成形だとジョーは言うのだった。
「ま、あんなことはさせないけどね、あたしは。
ろうそくはもっとロマンチックなことに使うものよ… きゃあああ」
そんなことを言ってみては自分で自分を抱くしぐさをして体を揺すって照れた。
藍はそういうジョーのおねえっぽいしぐさにもいつも自然と笑った。
心から緊張を緩めてもらえる気がしていた。
「はあい。じゃ。おなかからゆっくり吐いてみましょう… 」
ふうう… と息を吐く。
そのとたん、藍はまたあの言いようのない寂しさに包まれた。
「あら。どうしたの。なんでやめちゃうの」
ジョーは訝しげに小首を傾げて藍を見た。
「あ。すみません。もう一回、お願いします」
ジョーは立ち上がって、自分も肩の広さに足を広げて立った。
「一緒にやるわよ。はい。おなから吐きます… 」
ごほごほ、と藍は咳き込んだ。
「あら。風邪かしら」
「いや、違うと思うんですけど。なんだか、息を吐くと… 」
藍は泣きそうになって言った。
「胸の奥に小さい小さい針の穴みたいなのがあって、息を吐くと、そこがどんどん広がっていくような、すーすー胸が寒いみたいな、変な気分になるんです… どうしよう、ジョー先生… 私、息が吐けない」
ミスター・ジョーのこめかみがピクリ、と動いた。
「わかったわ。わかった。
じゃ、今日は自分の歌いたい歌を歌ってちょうだい。
順序を変えて、まずそこから始めましょう。
そうよ、自分の気持ちをまず楽にしなくちゃ」
エレピの前に座ったミスター・ジョーは、やおら『キャサリン・ロスにあこがれて』のイントロを弾き始めた。
そのとたん、藍の視界がぐにゃぐにゃになった。
息をしようとしてもできない。
涙も出ない嗚咽のような「う、う」という苦しげな声を出しながら自分の胸を抱いてうずくまった。
ミスター・ジョーは跳ね飛ばされるように部屋を出ていった。
そうしてものすごい速さで、どこからか小さな紙袋をもってきた。
「藍、横になって。
コレをゆるく口に当てて、喉を開いて。
ゆっくり、ゆっくり、吸うのよ。
そう、それから、少しでもいいから、吐くの」
言われたようにすると、だんだん呼吸は整っていった。
それでも青ざめて、藍は目を閉じていた。
ミスター・ジョーは深刻にぎょろりとした目を何度もしばたかせた。
「休んだほうがいいわね。しばらく」
返事も返せず、藍は青ざめたまま動かなかった。
※映画化を記念して、12月8日より再連載を開始しました。
※フォトブログ小説『音楽人1988』 目次
〔1〕藍気流、歌う
〔2〕見守ってくれる恋人
〔3〕二人の出会い
〔4〕いつもと違う記理子
〔5〕結果発表始まる
〔6〕意外な受賞
〔7〕これからのこと
〔8〕祝う人々
〔9〕黒い涙
〔10〕隠されていた分かれ道
〔11〕2匹のパンダ
〔12〕中野のカフェバーで
〔13〕プロの意味。オトナの意味。
〔14〕記理子の背中
〔15〕真っ赤なアルファ・ロメオ
〔16〕決意
〔17〕ミスター・ジョー
〔18〕息ができない!
〔19〕記理子の誘い
〔20〕嵐の夜
〔21〕ありえない夜
〔22〕5万円のテレフォンカード
〔23〕「異常のない」異常
〔24〕詩夫のアパート
〔25〕陽一郎の頼み
〔26〕盲目の美少女
〔27〕桜の花びら舞う下で
〔28〕藍色のギターを
〔29〕ハートのイヤリング
〔30〕古いセーター
〔31〕記理子の告白
〔32〕ハカラング
〔33〕二つの待ち合わせ
〔34〕詩夫のいる場所
〔35〕詩夫の婚約者
〔36〕追いかけてきたオーバーオール
〔37〕ウェディング・ドレス
〔38〕アーティストの条件
〔39〕同じ煙草
〔40〕たった一つの居場所
〔41〕伝えたい歌
〔42〕THEギョーカイの人々
〔43〕幸枝の願い
〔44〕恋に似た思い
〔45〕窓
〔46〕傘の向こうに
〔47〕「Call my name」
〔48〕スキャンダル
〔49〕詩夫の言葉
〔50〕最後のチャンス
〔51〕コンクリートの上で
〔52〕したことのないキス
〔53〕つないだ手と手
〔54〕取り戻せた友情
〔55〕Sing and Run
〔56〕降ってきたデビュー
〔57〕各務家のリビングで
〔58〕昔話
〔59〕再会
〔60〕夢のゆくえ
※『音楽人1988』からの20年後、藍・陽一郎・詩夫の子供たちが織りなす2008年を舞台にしたケータイ小説『音楽人2008』。
※『音楽人1988』と『音楽人2008』は、音楽と楽器の専門学校【学校法人ESP学園】を舞台とした物語です。
※映画化が決定しました!
・音楽人が佐野和真さん・桐谷美玲さんダブル主演で、映画化されることになりました!
・佐野和真×桐谷美玲×加藤慶祐×古原靖久×足立梨花=映画『音楽人』まとめ
「304 ジョー・ボイススクール」。
その部屋番号札に、小さく「城勘太郎」と書いてある。
その名前とおねえっぽいミスター・ジョーの動きを重ねると、藍はいつもくすっと笑ってしまう。
でも今日は、笑う気がしなかった。
グレーの霜降りのジャージに着替え、裸足でジョーのエレピの前に立つ。
「ストレッチからやりますか」
「あ。はい」
藍はぐるぐると肩を回したり、顎の関節を開けて、自分でごりごりマッサージしたりした。
足首や手首も回す。
片腕ずつ肘を曲げて上げ、反対の手で肘をゆっくり下に押して胸のワキの筋肉を少しずつ開いていく。
両手を開き、片方ずつ、肩甲骨を伸ばす。
5分ほども真面目にやると、汗ばんできた。
「はい。そんなことろでいいかしら。じゃ、呼吸法いきます」
ミスター・ジョーは呼吸法に凝っている。
というか、自分なりの呼吸法を編み出して世の中に広めたいと思っていた。
彼はいつも言った。
「あのね、全身で息を完璧に吐けなかったら、息は吸えないの。
完璧に吐くから完璧に吸えるのよ。
そしてその繰り返しを全身で行うことで、だんだんと細胞がいきいきしてくるわけ。
呼吸器も自分の仕事をするようになる。
喉も開いてくる。
さあ、あとは感情を込めて歌うだけよ。
オッケーオールラィー」
テレビのCMでろうそくを吹き消さずに民謡を歌う歌手の姿があったが、あれこそが「全身で歌う」ことの完成形だとジョーは言うのだった。
「ま、あんなことはさせないけどね、あたしは。
ろうそくはもっとロマンチックなことに使うものよ… きゃあああ」
そんなことを言ってみては自分で自分を抱くしぐさをして体を揺すって照れた。
藍はそういうジョーのおねえっぽいしぐさにもいつも自然と笑った。
心から緊張を緩めてもらえる気がしていた。
「はあい。じゃ。おなかからゆっくり吐いてみましょう… 」
ふうう… と息を吐く。
そのとたん、藍はまたあの言いようのない寂しさに包まれた。
「あら。どうしたの。なんでやめちゃうの」
ジョーは訝しげに小首を傾げて藍を見た。
「あ。すみません。もう一回、お願いします」
ジョーは立ち上がって、自分も肩の広さに足を広げて立った。
「一緒にやるわよ。はい。おなから吐きます… 」
ごほごほ、と藍は咳き込んだ。
「あら。風邪かしら」
「いや、違うと思うんですけど。なんだか、息を吐くと… 」
藍は泣きそうになって言った。
「胸の奥に小さい小さい針の穴みたいなのがあって、息を吐くと、そこがどんどん広がっていくような、すーすー胸が寒いみたいな、変な気分になるんです… どうしよう、ジョー先生… 私、息が吐けない」
ミスター・ジョーのこめかみがピクリ、と動いた。
「わかったわ。わかった。
じゃ、今日は自分の歌いたい歌を歌ってちょうだい。
順序を変えて、まずそこから始めましょう。
そうよ、自分の気持ちをまず楽にしなくちゃ」
エレピの前に座ったミスター・ジョーは、やおら『キャサリン・ロスにあこがれて』のイントロを弾き始めた。
そのとたん、藍の視界がぐにゃぐにゃになった。
息をしようとしてもできない。
涙も出ない嗚咽のような「う、う」という苦しげな声を出しながら自分の胸を抱いてうずくまった。
ミスター・ジョーは跳ね飛ばされるように部屋を出ていった。
そうしてものすごい速さで、どこからか小さな紙袋をもってきた。
「藍、横になって。
コレをゆるく口に当てて、喉を開いて。
ゆっくり、ゆっくり、吸うのよ。
そう、それから、少しでもいいから、吐くの」
言われたようにすると、だんだん呼吸は整っていった。
それでも青ざめて、藍は目を閉じていた。
ミスター・ジョーは深刻にぎょろりとした目を何度もしばたかせた。
「休んだほうがいいわね。しばらく」
返事も返せず、藍は青ざめたまま動かなかった。
※映画化を記念して、12月8日より再連載を開始しました。
※フォトブログ小説『音楽人1988』 目次
〔1〕藍気流、歌う
〔2〕見守ってくれる恋人
〔3〕二人の出会い
〔4〕いつもと違う記理子
〔5〕結果発表始まる
〔6〕意外な受賞
〔7〕これからのこと
〔8〕祝う人々
〔9〕黒い涙
〔10〕隠されていた分かれ道
〔11〕2匹のパンダ
〔12〕中野のカフェバーで
〔13〕プロの意味。オトナの意味。
〔14〕記理子の背中
〔15〕真っ赤なアルファ・ロメオ
〔16〕決意
〔17〕ミスター・ジョー
〔18〕息ができない!
〔19〕記理子の誘い
〔20〕嵐の夜
〔21〕ありえない夜
〔22〕5万円のテレフォンカード
〔23〕「異常のない」異常
〔24〕詩夫のアパート
〔25〕陽一郎の頼み
〔26〕盲目の美少女
〔27〕桜の花びら舞う下で
〔28〕藍色のギターを
〔29〕ハートのイヤリング
〔30〕古いセーター
〔31〕記理子の告白
〔32〕ハカラング
〔33〕二つの待ち合わせ
〔34〕詩夫のいる場所
〔35〕詩夫の婚約者
〔36〕追いかけてきたオーバーオール
〔37〕ウェディング・ドレス
〔38〕アーティストの条件
〔39〕同じ煙草
〔40〕たった一つの居場所
〔41〕伝えたい歌
〔42〕THEギョーカイの人々
〔43〕幸枝の願い
〔44〕恋に似た思い
〔45〕窓
〔46〕傘の向こうに
〔47〕「Call my name」
〔48〕スキャンダル
〔49〕詩夫の言葉
〔50〕最後のチャンス
〔51〕コンクリートの上で
〔52〕したことのないキス
〔53〕つないだ手と手
〔54〕取り戻せた友情
〔55〕Sing and Run
〔56〕降ってきたデビュー
〔57〕各務家のリビングで
〔58〕昔話
〔59〕再会
〔60〕夢のゆくえ
※『音楽人1988』からの20年後、藍・陽一郎・詩夫の子供たちが織りなす2008年を舞台にしたケータイ小説『音楽人2008』。
※『音楽人1988』と『音楽人2008』は、音楽と楽器の専門学校【学校法人ESP学園】を舞台とした物語です。
※映画化が決定しました!
・音楽人が佐野和真さん・桐谷美玲さんダブル主演で、映画化されることになりました!
・佐野和真×桐谷美玲×加藤慶祐×古原靖久×足立梨花=映画『音楽人』まとめ