〔56〕降ってきたデビュー

藍が体の異変に気づいたのは、高田馬場からの帰り道だった。

電車のなかで吐き気がした。

あわてて途中下車した。

ひょっとして… という気持ちは、次の日、町の産婦人科の医者が明らかにしてくれた。

「2ヶ月ですね」
「あの… そうすると、いつ産まれるんですか」
「3月ですね」
「3月ですかー」
「学生さん?」
「はい」
「卒業式は出られないかもしれませんね」

髪を束ねたふくよかな女医はにっこり笑った。

「産むでしょう」
「もちろんです」

藍は大きな声で答えた。

これでもうデビューはなくなった。
むしろすっきりしたような気もした。

すぐに陽一郎に電話した。

電話の向こうで、陽一郎は飛び跳ねんばかりだった。

「結婚式、しなきゃな」

だが、デビューのことは少しこだわった。

「ほんとにいいのか」
「うん。いいんだよ」

藍はあっさり答えた。

その夜、藍の家にKレコードの横山という男から電話があった。

「野原藍さんですか」
「はい」
「KレコードでA&Rをしております横山と申しますっ。
ワダエツ… いやWAPの和田社長からお話をいただいていた者ですっ」

一生懸命な声だった。藍は気の抜けた返事をした。

「はあ」
「一度お目にかかってお話しましょう」
「あの。でも私… WAPとはもう契約しないと思うんです。
それに…」
「いえ」

横山は強引だった。

「WAPが預からないならぼくが事務所を探します。
とにかくうちと契約してもらいたいんです」

横山は藍と翌日に会う約束を取り付けた。

「Kレコードの紙袋をもっていますっ。
すぐわかると思いますっ」

電話の向こうから唾が飛んできそうだと藍は受話器を遠ざけた。
 

待ち合わせは表参道のスパイラルホールのカフェに5時だった。

梅雨の晴れ間で少し寒かった。

藍はひざ掛けにしようとピンクのストールを一枚、バッグに押し込んだ。

おなかのなかの子どもを気遣ってのことだった。

今日はそのことを横山にはっきりと言わなければ、と藍は深呼吸した。
「残念ですが、妊娠しているので」
玄関の鏡に向かってひとり言を言ってきた。
スパイラルのカフェは混んでいた。

それでもKレコードの紙袋を2つももっている横山はすぐに見つかった。

小太りで、額に汗をかいている。
重そうなショルダーでジャケットの肩は崩れ、短いズボンと靴の間から白いソックスが目立っていた。
「横山さんですか」
「あっ。野原藍さんっ」

汗だくの顔が振り向いた。

大きな声だったので、カフェに並んでいた客が一斉にこちらを見た。
「あの… 静かにお願いします」
「そうですねっ。
有名人ですからねっ」
「いや、そんなんじゃ…」

藍はいたたまれなくなって、横山を別のカフェに誘った。

いつも記理子と使う、裏通りの店だった。
「行き着けにご案内してもらって恐縮ですっ」

横山は頭を下げ、黒いショルダーから名刺の箱を取り出した。

プラスチックの箱のまま、持ち歩いているらしい。
「横山と申しますっ。
野原さんの歌に惚れてますっ」

名刺を受け取り、藍はバッグにしまった。

「横山さん。
私、せっかくですけど、デビューできないんです」
「なぜですかっ」

本当に横山の唾が飛んできた。

藍は顔をしかめながら、でも丁寧に言った。

「私、妊娠してるんです。
3月に産むんです」
「はあ」

横山はあわわ、と口を開いたままになったが、すぐに切返した。

「結婚されるんですか」
「はい。もうすぐ入籍します」
「じゃ、問題ないっ」

うん、と横山は勝手に納得した。

「結婚されるんであれば、いい話じゃないっすか。
レコードデビューには何も関係ないっ。
若干、プロモーションに本人がいないのは困りますが。
ま、やり方を考えればいい。
出しましょう、春に」
「へっ」

今度は藍があわわ、と口を開いたままになった。

横山は晴れやかに言った。

「うちからデビューしてくださいっ。
当社は歌謡曲の会社というイメージがあるかもしれません。
これからは違うっ。
ジャパニーズ・ポップスの時代ですっ。
子どもを産んでデビューするシンガーソングライター、いいじゃないっすかっ。
うん、いいっ。燃えてきたぞっ」
「でも事務所が…」
「小さいところですが、私にあてがありますっ。
任せてくださいっ」

横山は勢いよく頭を下げ、来たばかりのコーヒーにおでこを命中させた。

「あちっ」

あはは、と藍は大笑いした。

野原藍に再びデビューのチャンスがやってきたのだ。

藍は笑いながら、そっと左手をおなかに当てていた。

この子が、チャンスをくれたのかもしれない。

そう考えると、急にまぶしい太陽の下にいるような気持ちになれた。



※フォトブログ小説『音楽人1988』 目次
〔1〕藍気流、歌う
〔2〕見守ってくれる恋人
〔3〕二人の出会い
〔4〕いつもと違う記理子
〔5〕結果発表始まる
〔6〕意外な受賞
〔7〕これからのこと
〔8〕祝う人々
〔9〕黒い涙
〔10〕隠されていた分かれ道
〔11〕2匹のパンダ
〔12〕中野のカフェバーで
〔13〕プロの意味。オトナの意味。
〔14〕記理子の背中
〔15〕真っ赤なアルファ・ロメオ
〔16〕決意
〔17〕ミスター・ジョー
〔18〕息ができない!
〔19〕記理子の誘い
〔20〕嵐の夜
〔21〕ありえない夜
〔22〕5万円のテレフォンカード
〔23〕「異常のない」異常
〔24〕詩夫のアパート
〔25〕陽一郎の頼み
〔26〕盲目の美少女
〔27〕桜の花びら舞う下で
〔28〕藍色のギターを
〔29〕ハートのイヤリング
〔30〕古いセーター
〔31〕記理子の告白
〔32〕ハカラング
〔33〕二つの待ち合わせ
〔34〕詩夫のいる場所
〔35〕詩夫の婚約者
〔36〕追いかけてきたオーバーオール
〔37〕ウェディング・ドレス
〔38〕アーティストの条件
〔39〕同じ煙草
〔40〕たった一つの居場所
〔41〕伝えたい歌
〔42〕THEギョーカイの人々
〔43〕幸枝の願い
〔44〕恋に似た思い
〔45〕窓
〔46〕傘の向こうに
〔47〕「Call my name」
〔48〕スキャンダル
〔49〕詩夫の言葉
〔50〕最後のチャンス
〔51〕コンクリートの上で
〔52〕したことのないキス
〔53〕つないだ手と手
〔54〕取り戻せた友情
〔55〕Sing and Run
〔56〕降ってきたデビュー
〔57〕各務家のリビングで
〔58〕昔話
〔59〕再会
〔60〕夢のゆくえ

※『音楽人1988』からの20年後、藍・陽一郎・詩夫の子供たちが織りなす現在の音楽青春物語フォトケータイ小説『音楽人2008』には、9月30日まで南圭介さん・大島麻衣さん・崎本大海さん・篠谷聖さん・小泉梓さん・浅野かやさんが出演しています。
※『音楽人1988』と『音楽人2008』の主題歌『今すぐ会いにゆくよ』が収録されているBahashishiのCD(リード曲は『繋いだ手と手』が11月12日に発売になります。
※『音楽人1988』と『音楽人2008』は、音楽と楽器の専門学校【学校法人ESP学園】を舞台とした物語です。

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